20240125

29年前の阪神大震災と令和6年能登半島地震に思うこと

阪神淡路大震災から29年が経ちました。
「今年も1.17がやってきたか・・・」と毎年思います。

しかし今年は元日に能登の地震があったことで、1月17日の感じ方がこれまでと大きく異なりました。

2024年1月1日、お正月の穏やかな空気の中で飛び込んでいた衝撃の知らせ。
テレビではどのチャンネルも「間もなく津波が来ます。早く逃げろ!!」と切迫した声と定点カメラの映像が流れていました。
私は家族とともに固唾を飲んでテレビを見つめます。

「どうか被害がありませんように」

私が写真学生の1年生だった夏、能登半島の写真を撮りに行ったことを思い出します。1週間だったか10日間だったか。

車で巡った一人旅で、多くの人との出会いもありました。
和倉温泉の旅館で役者をしているという男性の家に泊めてもらったり、奥能登ではあまごを捕まえようとしている子供たちと交流したり、酒屋のおじいちゃんを知り合ってお家に上がらせていただいたこともありました。
浜辺に立つ板張りの家屋や細い路地とそこに流れる水路・・・
もう24年前のことですが、あの場所はどうなっているのだろう?と他人事とは思えない気持ちになります。

「どうか被害がありませんように」

その願いはあっけなく潰えます。時間とともにじわじわと悲惨な状況を知ってしまうことになりました。ひとりひとりの生活があって、家族の生活があって、地域のコミュニティがあって。これまでゆっくりと築き上げてきたそこに住む人々の生活が一瞬にしてなぎ倒されるのが、とても悔しく思います。

テレビに映し出された倒壊した木造家屋や焼けた輪島の街並みを見ると、29年前の震災の体験を生々しく思い出させられます。

私が29年前に体験した、崩れた土壁の臭い。漏れたガスの臭い。家が燃え焦げた臭い。
そして空気中に漂う不快な土埃。
視覚だけではない、すべての感覚で能登の悲惨さを実感します。

阪神淡路大震災も真冬でした。あの年は暖冬でしたがやはり極寒の中過ごしました。今回も真冬。しかも北陸の寒さは阪神の比じゃない厳しさです。
そして山間部に位置する街には救援物資の到着も苦労しているとのこと。

被災された方の絶望感は私が想像できるようなスケールのものではありません。
今の私にできることは少ないかも知れませんが、この2024年の災害に心を寄せて過ごして行こうと考えています。

そして私たちが29年前に多くの善意ある方に助けられたように、能登の方々の力になれる何かを見つけて行かなければと考えています。

毎日を“当たり前”と思って過ごしてはいけないと言うことを改めて思い知らされた29年目の1月になりました。