阪神淡路大震災から24年がたちました。
震度七の真っただ中にその時いたぼくにとっても24年という歳月は長く、その時感じたことは少しずつ薄らいで来ているのが事実です。
神戸市では全人口のうち震災を経験していない人が半数となったとのこと。それをきくと
24年の時間の長さを感じます。
震災の時、ぼくは19歳でした。西宮の自宅にいて、その自宅は戦前に建てられた木造の2階建ては僕たち家族の命を守ってくれました。ただ損傷はあまりにも大きく(全壊でした)
ぼくたちはその家に住み続けることはできませんでした。
震度七の衝撃はあまりにも暴力的な強さで体に今も刻み込まれています。
19歳というざまざまなことを敏感に受けとる年齢のぼくにとって、十数秒の揺れで世界が変わってしまったことは衝撃ということばでは表せない、大きなことでした。
今まであった大きな建物がなくなりそこに空が広がっていたり、駅はアナウンスも電車の走行音もなく静寂に包まれていたり。
テレビで当時の映像が流れると決まって、消防車のサイレン音や、人々が発する緊迫した声が流れるけれど、震災直後の街はあまりにも静寂でした。家族の安全を確かめて、喜びあって、途方に暮れて・・・そしてぼくは駅まで歩きました。親戚に無事を伝えるため公衆電話にならびました。(当時は携帯電話なんかほとんどの人が持っていなかった。もちろんぼくだって)
街を歩く数少ない人も、公衆電話に並ぶ人もただ無言でした。ぼくの住む町内は崩れた家が多くありました。その崩れた家を縫って歩く人々の姿が記憶に残っています。そして駅前に漂っていた漏れたガスのにおい、止まって動かない電車。前日の夜とはまるっきり違う世界でした。
祖母は「戦争が終わってずいぶん経つのに、まさかまたこんな目に遭うとは」と呆然としていました。
そこから時間がたって街は修復されて行きました。
震災があって街の都市計画は一新された気がします。きれいな道路が開通して渋滞が緩和され、同時に震災の面影を残すものもなくなりました。
記憶だけが人々の中にかろうじて残りました。その記憶は当時震災に遭った人にとってとても深いものです。
今年ケープ・ライトに入ったスタッフは20歳。震災後に生まれた世代です。妻は福岡出身。当然震災のことは知りません。娘たちももちろん震災を知りません。
ぼくの周りでも震災を経験していない人が過半数になりました。
24年という時間の長さを感じ、そう思うとぼくだけ時間が止まってしまったかのような錯覚に陥ります。
でもだからこそ、震災のこと、その怖さ、その時の人々の振る舞いをみんなに伝えていかなければならないと思います。
何十年たっても、1月17日は特別な日です。
河田洋祐
子供たちがすくすく育つ、それが一番の幸せに感じます。